Tはじめにー抑うつの日常的モデルからの出発
 躁うつ病とはどのような病なのであろうか。どのようにして生じ、どのような症状を呈し、どのような治療を行うべきなのであろうか。このような問題に対して、臨床的な水準で答えようとするのが、精神病理学である。
 しかし、躁うつ病の主要症状である躁とうつの気分変化は、誰もが多かれ少なかれ経験している日常的なものである。「あるときは気持ちが明るくなり、あるときは暗くなる。これは、生身のからだを持って生きている人間すべてにとって自然なことである。気分が爽快なときには、意欲がたかまり、気力が充実する。反対に気分が陰鬱なときにはなにごとにつけて意気があがらず、気力が出ない。」(8)
 このような日常的な気分変化から、躁うつ病を理解し、躁うつ病のモデルを作り上げることができる。それは、日常臨床において、多くの場合は家族の、時には患者の意見として述べられる次のようなものである。「憂うつには誰でもなる。嫌なことや悲しいことがあれば、気分は落ち込むものだ。そんなときには、落ち込みの原因となった問題を解決するか、気分の転換をはかれば良い。旅行をしてみるとか、趣味に熱中するとかすれば、嫌なことも忘れ、気分が明るくなるものだ。こうした努力もせずに、憂うつだとごろごろしているのは、なまけであり、心構えの問題である。結局、気分は気の持ち方ひとつで変わるはずだ」このような躁うつ病の日常的モデルは、@気分の変化を悲しいことなどへの反応ととらえ、気分の転換によって良くなるものとし、A意欲の低下を、なまけなどの心構えの問題であるととらえ、本人の努力によって改善するべきものと考えている。このモデルに基づいて、日常臨床では家族などからさまざまな意見が語られる。「旅行でもすれば良くなるのではないでしょうか」「入院したり仕事を休んだら、なまけぐせがついてかえって病気がひどくなるのではないでしょうか」「会社でのストレスが原因だから、会社を辞めないと治らないのではないでしょうか」「本人の気の持ちようなのだから、薬を飲んでも仕方がないと思いますが」「お寺などで修行して精神力をつけたほうが良いのではないでしょうか」そして、しばしばこのような意見を持つ家族と治療者が対立してしまうこととなる。
 本稿では、躁うつ病の精神病理学を概観するにあたって、このような家族の意見に対して精神病理学はどのような対応をするように教えてくれているのかということに焦点を当てて考えてみたい。そして、精神病理学の知見を日常臨床における対話の中で利用しやすいものとしてまとめてみる。なお、考察の対象は、精神病理学的な研究が多く、家族などの意見も良く語られるうつ状態を中心とする。                   
 U内因性疾患としてのうつ病ーうつ病は日常的な気分の変化とは異質のものである。
 精神病理学は、まずうつ病が日常的な抑うつとは異質のものであることを明らかにすることから出発している。そして、内因性の疾患としてうつ病を理解するモデルを提出している。
 まず、うつ病における気分・感情の変化は、日常的な憂うつ気分とは異なったものである。たとえば、そもそもうつ病患者は悲しんでいる(traurig) のだろうか。Schulte W (18)は、むしろうつ病患者は、悲しむことも喜ぶこともできない状態になっているのであり、本来悲しむべき息子の死に直面してもなにも感じなくなっていると主張する。うつ病というものは、言い表しようのないものなのであり、他に表現の仕方がないため、「悲しい」という隠喩が、用いられるにすぎないのであって、むしろ「悲しむことができない」(Nichttraurigseink nnen)ということが、うつ病体験の中核なのである。また、    Schneider K(17) は、うつ病のもっとも重要な症状として、胸や胃に局在する圧迫感として体験される「生気的悲哀ないし抑うつ」をあげている。うつ病の抑うつにおいては、身体感情の消沈がその特徴を形成しており、日常的な抑うつとは違って、身体的なレベルでの抑うつが問題となるのである。
 さらに精神病理学の研究は、そもそもうつ病の症状は気分・感情の障害ということで割り切れないものであり、症状の根底に時間性の障害があるのではないかと主張している。たとえば、Straus E(20)は、うつ病においては、内在する私の時間が進行を緩め、世界の通過する時間との不一致を生じるとし、この時間構造の変容が、内因性うつ病の本質をなすとしている。内的時間のテンポが遅くなるほど、未来はうつ病患者にとって閉ざされ、患者は過去のものから支配され、拘束されていると感じる。患者の体験する不幸は、過去によって決定され、しかも取り返しのつかないものとして、規定されている。患者は、過去によって絶対的に拘束されていると感じ、そして、この拘束を、貧困妄想・罪業妄想・心気妄想などのうつ病性妄想によって表現するのである。また、Gebsattel V v(3)も、うつ病の本質を内的な時間生起の障害としての生気的制止に見ている。そして、うつ病で障害される時間性は、体験以前のより根源的な生きられる時間であるとしている。
 また、Binswanger L(2) も、うつ病を感情・気分の障害ではなく、時間的経験様式の障害ととらえている。うつ病の罪業妄想においては、過去は「もしも……さえしなければ」というように語られ、本来可能性を持たない過去についての、空虚な可能性が問題とされる。ここでは、自由な可能性へと開かれた未来志向が、過去へと引きこもってしまっている。これに対して、貧困破滅妄想においては、未来が「明日私の破産が新聞に出るのだ」というように、可能性を失った明証的なものとして語られる。ここでは、揺るぎのない明証性を持った過去志向が、未来に浸透してしまっている。このように、うつ病において は、時間的経験の統一性が弛緩しており、過去と未来が相互に浸透して意味を失い、患者は世界を経験することができなくなってしまっている。そして、この経験の喪失を表現するものとして、うつ病の気分変調が存在しているのである。
 さらに、宮本(11)は、うつ病の貧困妄想の臨床的特性を、@訴えが同じところをグルグル回っている印象を与え、同心円的循環という基本形態を持つ、A時間的進展の欠如、同じ内容の常同的反復、B妄想野が血縁的共同体に限定される、などの中に見いだした。また、うつ病者の言語について分析し、それが常に同心円状に循環し続けるという形をとることを明らかにした。このような臨床的・言語的な特性を見れば、うつ病においては、 「時間を先に進める」こと、すなわち「現在をのりこえる」ことが困難となっており、すべてのものが「同時並列」のものとなり、事態が先に進まなくなっていると理解できる。それゆえ、うつ病は、表面的には感情の障害であるが、その本質を見れば、「同時性」への強迫に由来する「円環的」存在様態を持った妄想病ととらえるべきものなのである。また、木村(7) も、うつ病の妄想が、すべて「取り返しがつかない」という前述語的意味方向を有していることに注目し、うつ病の基礎的事態を、「あとの祭り」(post festum) を恐れるポスト・フェストゥム的事態であるとし、気分よりも、時間性の障害を重視する立場を取っている。
 このような症状の横断面における特性に加えて、症状の起こり方や変化の仕方などの縦断面での特性でも、うつ病と日常的抑うつは異なったものである。たとえば、うつ病は、必ずしも人を憂うつにさせるようなできごとのあとに生ずるわけではない。心理的なきっかけが、全くないと思われる例も多く、「この病気の本当の原因は、持続して存在する内部の変化に求めるべきである」(9) と考えることも可能である。また、月経周期や季節の変化によって症状が生じてくることもあり、冬期の日照時間の減少によってうつ病が誘発される「季節性感情障害(Seasonal affective disorder) 」(14)という病型の存在なども最近注目を集めている。
 また、抑うつと生活の中での出来事の関連について、Schneider K(17) は、日常的な抑うつにおいては、喜ばしい知らせや気晴らしによって、多くの場合抑うつが消失するのに対して、うつ病では、うれしいことがあっても憂うつは少しも減らず、悲しい知らせが、回復に向かった病人を逆戻りさせることもないことを指摘している。Pauleikhoff B(13) も、うつ病が状況的な影響で誘発されたと考えられる症例においても、いったんうつ病が成立すれば、患者は状況に反応する能力を失い、元来うつ病を誘発した状況が変化して も、その変化に反応しなくなるという事実を指摘している。このように、心的な構造が反応性を失うこと(Nicht-Angesprochenwerden)が、うつ病を反応性の抑うつから区別する特徴であると考えられる。
 以上のような精神病理学の描くうつ病の内因性疾患としてのモデルは、うつ病の日常的モデルと鋭く対立するものである。この内因性疾患モデルに基づいて、日常的モデルによる考えを批判するとすれば次のようになるであろう。「なるほど普通の憂うつはおっしゃるようなものだと思います。しかし、憂うつは一種類とは限りません。それは、おなかが痛いといっても、食べ過ぎもあれば、胃潰瘍もあれば、胃癌もあるのと同じです。憂うつの場合でも、普通の憂うつとは違ったうつ病という病気があるということが精神医学では言われています。うつ病の憂うつは、誰にでもある憂うつとは性質が違うとされていま す。気分が落ち込んでいるというよりは、感情が動かなくなって悲しむこともできない状態にあるとか、気持ちの憂うつではなく、からだの憂うつであるとか言われます。また、気分の問題ではなく、心の中の流れや時間が止まってしまって、普通の考え方ができなくなって、これからのことについて絶望してしまう“考えの病気”だと言う人もいます。また、うつ病は、病気ですから、嫌なことや悲しいことが直接の原因ではなく、体質や季節やホルモンなどからだの方に原因がある場合が多いとされています。医学的には、神経と神経の間をつなぐ神経伝達物質というものに問題があるのではないかとも言われていま す。このようにうつ病は、病気ですので、普通の憂うつの様に気分転換で良くなるものではないとされています。これは、胃癌の腹痛が、適度の運動によって良くならないのと同じことと考えても良いでしょうか。むしろ、他の病気と同じように無理をせず休養を取って、適切な薬を飲んで治すものなのです。」
 
 V性格状況反応によるうつ病ー内因性のうつ病が性格と状況の絡み合いを原因として生               じることがある。
 うつ病の日常的モデルと内因性疾患モデルの鋭い対立を緩和するモデルとして、Tellenbach H(22)にはじまる性格状況反応うつ病のモデルが存在している。確かに、うつ病は日常的な抑うつとは異なったものであり、また必ずしも嫌なことや悲しいことのあとに生じる訳ではない。しかし、栄転を含む職場での配置転換・引っ越し・出産・結婚・家族成員の異動・仕事上の負荷やそこからの解放などの生活上の変化をきっかけとして、うつ病が生じることはしばしば認められる。このような嫌なことや悲しいこととは必ずしも言えない出来事によってうつ病が誘発されると言う事実は、日常的モデルや内因性疾患モデルでは、十分に説明することができない。そこで、Tellenbachは、メランコリー親和型という病前性格の概念を導入し、病前性格と状況の絡み合いの中で、うつ病の発病状況を理解することを提唱した。
 まず、Tellenbachは、うつ病患者が健康時から示している性格特徴をメランコリー親和型と呼ぶ。このメランコリー親和型性格は、うつ病相のみからなる単極型うつ病に主として認められる病前性格であり、次のような特徴を持つものである。@几帳面さ、秩序を愛すること。彼らは、なにごとにつけ几帳面で良心的であり、特に仕事の分野では、きちんと正確にやりとげようとする傾向が強い。彼らの職業生活は、勤勉・強い責任感・厳密さなどで特徴づけられ、日常生活では周到な整理整頓が目立つ。このような几帳面さは、家庭や職場では周囲の人から高い評価を受けるものであるが、極端なものでもある。A自己の仕事に対する過度に高い要求水準。彼らは、仕事をきちんと正確にやりとげようとする一方で、量的にもたくさんの仕事をしようとする。彼らは一日中働こうとし、休日も働こうとし、休暇も取ろうとしない。彼らは、いつも働いてばかりいて、働きすぎでくたくたになっているにもかかわらず、十分な仕事量をこなさないと満足できない。B他者、特に身の回りの人に尽くす。彼らは、親切で誠実であり、他者のために存在し、他者に気を配る。他者に奉仕し、他者をよろこばせることで満足感を得る。また、彼らは争いを好ま ず、「穏便第一」をモットーとしている。
 このようなメランコリー親和型性格は、よき職業人家庭人として、高い評価を受ける性格である。しかし、彼らは「あまりにも正常」であり、几帳面・秩序・勤勉・親切などによる自己実現の様態にしがみつき、その中で身動きが取れなくなっているとも見ることができる。彼らはいかなる場合も几帳面で勤勉であらねばならず、こうした融通のきかない秩序の中に自分を閉じ込めることによって、居場所を確保している。そして、几帳面・勤勉・親切などによる秩序の維持が困難となる状況が生じると、彼らは状況に対応することができなくなる。
 たとえば、責任感の強い工員が工場長に昇進した場合を考えてみよう。彼は、工場長になっても、工員のときと同じように几帳面に仕事をやりとげようとする。しかし、彼の責任範囲は広がっており、すべての仕事をやりとげようとすれば、正確に仕事を進められなくなり、正確にやろうとすれば、仕事にやり残しが生じてくる。工員の時の高い要求水準を厳守しようとして、努力すればするだけ、彼は要求水準の実現から遠ざかっていくという袋小路に閉じ込められてしまう。そして、要求水準を満たせないという負い目を負っ て、絶望の中へと落ち込んでいき、うつ病がはじまる。このようにメランコリー親和型性格者が、昇進・引っ越し・退職・子供の結婚・身体的な病気・出産などのために、自らを閉じ込めてきた秩序が維持できなくなる時に、うつ病が生じるのである。
 このTellenbachの発病状況論を受けて、Kraus A(10) は、躁うつ病者の対人行動に焦点を当てて、躁うつ病者の性格のうちにひそむ真に病的なものを明らかにしようとした。 Kraus によれば、メランコリー親和型に見られる几帳面さは、裏にだらしなさを隠しているような見せかけの几帳面さではなく、だらしない行動をとる自由を残さないような亢進した几帳面さである。そこでは、うつ病者は、几帳面さと同一化していると考えられる。対人関係においても、彼らは他者と同一化しようとし、社会的な役割においても、彼らは役割との著しい同一化過剰を呈する。このように躁うつ病者の病前性格は、過剰な同一化によって特徴づけられる。そして、このような過剰な同一化は、躁うつ病者が、自由を恐れ、自我同一性を自由を排除した同一化の中に求めていることによっている。そして、昇進や引っ越しなどで同一化していた対象が失われたりして、自由を発揮しなければならない状況に直面すると、躁うつ病者の自我同一性の欠陥が露呈し、発病に至るのである。
 また、飯田(6) は、一卵性双生児不一致例をもとに、メランコリー親和型の成立史について考察し、メランコリー親和型とは、循環性格の素因を持つ個体が、発達早期に十分な母親との対象関係をもてなかったために、一体化願望を形成し、その代償的満足をはかるために強迫的機制を発展させたものであるとし、メランコリー親和型を人格の病的な発展ととらえている。また、Gratzel J(4)もリチウムの長期投与によってメランコリー親和型の性格特徴が消褪することから、メランコリー親和型とは性格面にのみ症状を出したうつ病なのではないかとしている。
 以上のような病前性格ー発病状況論によって、日常的モデルと内因性疾患モデルをつなぐモデルが提供される。すなわち、性格と状況という日常的モデルと同じ枠組みが病気を引き起こすというモデルである。このモデルを用いて語るとすれば次のようになるであろうか。「ただしうつ病が普通の憂うつとは違ったものだとしても、性格と環境の組み合わせでうつ病が生じることがあるとは言われています。精神医学では、几帳面でまじめすぎる人がうつ病になりやすいとされています。たとえば、几帳面で真面目すぎる係長が、課長に出世して部下の数が多くなったりすると、部下の仕事をすべて監督できなくなりま す。それでも真面目すぎる人は、何とか部下の仕事をすべて監督しようとして、働きすぎて疲れはてうつ病になってしまいます。このように、几帳面で真面目すぎる人が、出世・引っ越し・子供の結婚・からだの病気などのため環境の変化について行けなくなるときうつ病が始まるといわれています。このようなうつ病を性格状況反応型うつ病といいます。普通の憂うつでは、嫌なこと悲しいことが原因ですが、この場合はめでたいことも環境を変化させるものであれば原因となります。また、普通の憂うつではなまけていると考えることもできますが、この場合には働きすぎることが問題です。このように、うつ病を起こす原因は、普通の憂うつとはかなり違っているとされています。」
 
 W絶望とうつ病ー過酷な重圧や失敗の繰り返しが長期にわたって続けばうつ病が生じる         ことがある。
 これまで述べてきたうつ病の日常的モデル、内因性疾患モデル、性格状況反応モデル は、うつ病になる個人の側の要因、ないしは個人の側の要因と環境要因の絡み合いから、うつ病を理解しようとするものであった。これに対して、絶望をもたらすような強烈な環境は、個人の条件を超えてうつ病を生じさせることが指摘されている。
 このような絶望をもたらす強烈な環境としては、まずアウシュビッツをはじめとしたナチスドイツの強制収容所をあげることができる(5) 。そこでは、「ユダヤ人問題の根本的解決」すなわち民族の抹殺を目的として、人の心を踏みにじるあらゆることが計画的に実行されていた。この極限状況において、人々は、離人症・退行などさまざまな精神的問題を呈した。そして、戦争が終結し、強制収容所から解放され、身体的な回復がもたらされても、彼らは、強制収容所の恐ろしい体験の記憶に苦しみ、生き残ったことへの罪悪感にさいなまれた。また、解放後の生活においても家族を失い、社会的な地位を失い、言葉の通じない国で暮らすなど「根こぎ」状況に置かれた(1) 。このような強制収容所の絶望をもたらす状況とそれによってもたらされた解放後の根こぎ状況は、多くの人々に内因性うつ病と区別し難いうつ状態を持続的に生じさせ(21)、そして、このような抑留者のうつ状態は、解放後15年を経ても持続するものであった。
 絶望をもたらす環境によってうつ病が生じうるという考えを、動物実験によって明らかしようとした試みとして、Seligman M E P(19)らの「学習性絶望感」の理論がある。彼らは、回避箱にいれた犬に電撃を加えて、電撃を回避する学習を行わせる実験を行った。普通の犬は、最初のうちは、電撃を加えられると暴れ回り、偶然壁を乗り越えるだけであるが、回数を重ねるごとに学習効果をあらわし、すばやく壁を乗り越えるようになる。これに対して、あらかじめハンモックに拘束して、逃避不能の電撃を加えるという前処置を繰り返し行った犬は、しばらく動き回ると、すぐに回避行動をあきらめ、無抵抗に電撃を受け続け、回数を重ねても回避行動を学習しなかった。このように、対処不可能な衝撃を経験することによって、後の適応行動に障害を来すことを学習性絶望感と呼ぶ。この学習性絶望感に陥った動物は、単に回避行動の学習に失敗するのみではなく、その活動全般において、種々の障害を呈する。すなわち、自発性の低下、食欲・体重・性欲・社会的欲求の低下、脳内のnorepinephrineの枯渇などである。
 このような学習性絶望感の症状は、うつ病の症状とほとんど同じものといえる。このことからすればうつ病も、学習性絶望感と同じく、自分の努力によっては人生の問題をコントロールできないのだと学習したり信じたりすることから生じて来たのではないかと考えられる。このように、Seligmanらは、うつ病の根底に、環境との関係の中で生じた絶望感を認めており、個人の側の要因よりも環境要因が中心となってうつ病が生じる場合があると主張している。
 以上のような環境要因による絶望によってうつ病が生じることがあるという研究について説明するとすれば次のようになるであろうか。「これまで、うつ病は普通の憂うつとは違って、悲しい出来事や嫌な出来事が原因となるものではないと言って来ましたが、環境からのストレスによってうつ病が生じることもあります。たとえば、ナチスドイツのユダヤ人強制収容所を経験した人たちは、うつ病になることが多かったそうです。また、実験的に動物を絶望に陥らせる環境においておくと、うつ病とよく似た状態が作り出せるとも言います。このように、絶望をもたらすような環境が長期にわたって続けば、うつ病が生じるとされています。ですから、一つの出来事をうつ病の原因とは考えないほうが良いのすが、やはり絶望をもたらすような環境がなかったかは検討してみる必要があると思います。」
 
 X神経症のうつ状態
 日常臨床においては、うつ病との鑑別の難しい神経症のうつ状態がしばしば認められ る。たとえば、森田神経質で頭重感・頭内もうろう感を主訴とする例や、不安神経症の慢性状態、ヒステリーに伴う抑うつなどである。多くの場合には、森田神経質では症状へのこだわりの強さと完全欲のとらわれなどで、不安神経症ではpanic 発作の既往と予期不安の存在などで、ヒステリーでは多発性自律神経症状と疾病利得の分析などで、鑑別が可能となるが、時にはうつ病とも神経症とも断定できないまま治療を開始することもある。
 そして、神経症のうつ状態は、うつ病の場合とは異なった理解のモデルを必要としている。たとえば森田神経質においては、ささいな身体的変化を気にするヒポコンドリー性基調と、理想的な健康状態を求める完全欲のとらわれのために、寝過ぎて頭が重いなどの生理的な身体的変化に不安を感じ、不安と身体的変化が精神交互作用を起こして悪循環を形成し、症状が形成される。このため、治療にあたってまず問題とすべきは、患者の主観的態度であり、心の置き所である。いたずらな休養などは、かえって病気を養成するものであり、規則正しい入院生活による作業と指導によって、鍛錬を行い、完全欲のとらわれを打破することが必要なのである(12)。また、不安神経症においても、まず問題となるの は、panic 発作の時に経験する急性不安と、発作の再出現を恐れる予期不安である。そして、発作の出現を抑制する薬物の使用に加えて、不安に立ち向かう患者の心構えが重要となる(16)。ヒステリーについては様々の考えがあるが、著者ら(15)は、内的葛藤や耐えがたい状況への逃避拒絶反応として多彩な症状が出現していると考えている。治療的には、症状の裏に隠された内的葛藤や状況を分析し、患者自身が症状に逃避せず、問題に立ち向かっていくように指導して行くことが重要ではないかと考えている。
 このように神経症のうつ状態においては、患者自身の考え方・心の置き所・心構えなどの主観的な態度が問題となり、そこに焦点をあてた精神療法が必要とされている。この神経症モデルについて語るとすれば次のようになるであろうか。「また、うつ病とは別の病気とされていますが、良く似ていて区別の難しい神経症のうつ状態と言うものがありま す。たとえば、ささいなからだの不調にこだわって不安を感じ、不安とこだわりから自己暗示を掛けてしまって、症状を悪くしていると言われる森田神経質などがその一つです。このほか不安神経症とかヒステリーとか言われるものもありますが、いずれにせよ患者さん自身の心構えや考え方がある程度問題となるものです。そしてこの神経症のうつ状態では、薬や休養よりも精神的な指導やカウンセリングのほうが重要とされています。」
 
 Y個々の症例をどのようなモデルで理解するかー鑑別の困難さについて
 これまでの考察で、うつ病を理解するためのモデルとして、まず家族などが提出する@日常的モデルをあげ、続いて精神病理学の提供しているA内因性疾患モデル、B性格状況反応モデル、C環境による絶望のモデル、D神経症モデルの4つのモデルを取り上げて来た。これらのうつ病ないしはうつ状態のモデルは、それぞれに異なった治療的対応を示唆するものであり、臨床的には個々の症例をどのモデルで理解して治療を進めていくかが大きな問題となる。そして、典型的な性格状況反応型うつ病などの場合には、この鑑別は容易である。
 しかし、そもそもこれらのモデルは、身体医学におけるような明確な診断基準や検査所見を持つものではなく、医学的疾患よりも社会学でいう「理念型」に近い性質を持ったものなのである。このため、鑑別のむつかしい症例もあり、慢性化した軽症の内因性うつ病なのか、神経症のうつ状態なのか決めがたい症例や、性格状況反応とも、周期性の内因性うつ病とも考えることのできる症例などに良く出会う。また、これらのモデルは、異なった水準の問題を取り上げており、相互に排除的なものではない。このため、一つの症例において複数のモデルを用いなければならないこともある。たとえば、性格状況反応うつ病が慢性化して二次的に神経症化した症例や、内因性の季節性感情障害と神経症的反応が同時に生じている症例などである。
 また、治療開始当初には、そもそも情報が不足しており、我々は確実な判断を下せないことのほうが多いように思われる。このため取り合えずの診断をつけて治療は開始するものの、それ以外のモデルもいつも念頭に置き、最初の診断に固執せず、開かれた姿勢で治療を進める必要があるのであろう。このような考えで、語るとすれば次のようになるだろうか。
「これまでお話して来たようにうつ病にはいろいろな型があります。今日拝見した限りでは、あなたのうつ病は性格反応型うつ病のように思います。ただ、もう少し続けて治療をしてみないと確実なことは言えません。精神医学では、確実な診断を決めてくれる検査がなく、臨床的な経験だけが頼りですので、見立がむつかしいのです。ご家族のおっしゃるような普通の憂うつが中心ではないとは思いますが、全く関係していないとも言えないかもしれません。ですからこれからもどういううつ病なのかご一緒に考えていく必要があると思います。まず治療を開始してみてまた考えて行きましょう。」